コーヒーブレイクⅦ

民主党政権崩壊後は、国際政治経済情勢に視点がうつり、政治経済論はもとより、宗教論にも踏み込みました。最近は、日本古代の思想的系譜(和の思想)も論じています。皆さまの来訪をお待ちします。

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小島慶子というエッセイストが、〈エア離婚〉を選んで2年「夫婦リセットか、続行か。いま心は揺れて」 という記事①を書いている。(婦人公論JP 、yahooニュース)

コメントを読むと、批判的な意見ばかりで、自身が認める発達障害(?)をなじるような意見が多い。反対意見をコメントしたら、早速、✖サインが7個ついていた。ちょっと、異常な気がする。

ウィキペディアを見ても、賢すぎて角が立つ人のような気がする。

私が、書こうと思ったのは、スカパーで見た、「たとえば、愛」全話②、「課長さんの厄年スペシャル」③が、与える疑問点を私なりに考えたいからである。

①は、軟着陸離婚の経過報告、②は、ラジオの女性DJと元夫で芽が出ない小説家の別れの話。③は、離婚の危機にあった夫婦が雨降って地固まるという物語。

①と②は事象的にも当てはまることが多いが、実は、①と、②、③は根本的に異なる。
どう違うのかと言うと、前者は、女性から見た、愛、結婚生活の有り様。後者は、確かに主役は女性だが、発想は男性のもの。③については言うまでもない。

なぜ、そう思うのかと言うと、作者の感情注入が、小説家としての成功を諦め、田舎に帰る元夫の哀れさが、このドラマの主題にになっていると考えるからだ。脇役が実は主役という物語の典型と考えられる。

①の発想は、②と状況的に同一であると考えられる。ということは、①は、男性の恋愛観の中で生きていることになる。

しかし、よく考えると、いわゆる恋愛観で、男性から見る恋愛観以外のものがあるだろうか?
女流作家というのがあるが、男性の恋愛観を女性が色付けして書いているだけではないだろうか?

そもそも、愛というのは、雰囲気のようなもので、理念化されるようなものではない。独占欲によって抽象化されるようなものではない。妻のために働くのは愛ではない。②の元夫は、最後になってこれがわかり、先妻を諦めたのではないだろうか?小説は、フィクションだが、小説の真理は真実である。(バルザック,ゴリオ爺さん)







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